僕がその昔、会社で働いていたとき、上司から報告書を書くように指示された。やったことがなかったので、報告書がどんなものかわからない。想像上の報告書を、苦心の末書き上げ、提出した。ひどいものだった(と上司が言っていた)が、その上司はあきらめず報告書の書き方を教えてくれた。根気強い良い上司だなあ、と思う。その後、大学院で論文を書くにつれて、英語ならマシ(意味が通じるという意味で)な文章を書けるようになった(論文が研究誌に受け入れてもらえるのが、他人でも読めている根拠であるとすれば)。いまもって日本語は書けない。たぶん、誰も受け入れられないんじゃないかと、恐れている。日本語の論文的何か(書いたことが無い!)の締切りが近づいているのだ。切々と言い訳をしているです。
最近、森博嗣と村上春樹のエッセイを購入、比較検討した(というほど仰々しいことではないけど)。森の文章を読んだあと、村上の文章を読むと、すごく間延びしている感じがする。森の文章の密度が高い。森の文章は一文が短いからだ。村上の一文は長い。覚えているのが大変で、ぐったりしてしまう。慣れが必要だ。村上の文章は僕には理解不能の比喩が多い。理解できる人がいるのかもしれないし、理解できなくてもいいのかもしれない。森の文章に遊びがないかというと、むしろ遊んでばっかりである。気づかずに素通りしているものがたくさんありそうだ。宝探し的に、本を何度が楽しめるかもしれない。村上の文章も、間延びのように見えて、そこにすごく何かが詰まっているのかもしれないし、もしかしたらそのリズムというか、スピードが読者に文章を吸い込ませるのによいのかもしれない。
何度か日記で書いたように、僕は、手を動かさないと何事も理解できない仕組みで動いているようだ。実は、これが自由研究である。何が?